御影道中は室町(むろまち)時代(1400年頃)、本願寺八代法主の蓮如上人が浄土真宗を北陸地域に布教(ふきょう)したことを偲(しの)んで始められた道中です。
 各信徒の家などに寄りながら京都本願寺から福井県あわら市にある吉崎御坊(よしざきごぼう)までの240kmを7日間かけて歩き、8日間かけて戻ります。御影とは上人の姿を描いた絵のことで巻物になっているそうです。





 御影は吉崎御坊に到着されると巻物が開かれます。そのことを「腰伸ばし」と言うそうです。とても親しみを感じました。この日、台車をひかれていた山崎さんがたくさんお話をしてくださり楽しい一時となりました。ありがとうございました。
 御影は「蓮如上人様おと~り~」の声と共に吉崎御坊に向けて足早に旅立っていきました。見送る人達が名残(なごり)惜しそうにしていたのが印象的でした。




 後日、お話をしてくれた山崎さんからお手紙を頂きました。そこには自作された漢詩が書かれていました。

古志万里行

(こしばんりこう)

 淡雅行人西又東
(たんがこうじん にしまたひがし)
 路標處處緑陰中
(ろひょうしょしょ、りょくいんノなか) 
 幸魂越國昇平澤
(こうこんスえつのくに、しょうへいノたく)
 男大迹王君子風
(だんたいせきおう、くんしノかぜ)

北国街道を行く 
 心優しい旅人が西や東へと歩く
道しるべを探しながら歩く蒼葉の影
幸せをもたらす越の國は穏やかな様子
おほどの、すめらおうが育んだ所は
風になびく草のように
   その感化を受けていた

 素敵な漢詩をいただき深く感謝しました。大切な出会いでした。

 福井市の外れに泰澄(たいちょう)大師生誕の地がありました。泰澄大師は飛鳥(あすか)時代(700年頃)の真言宗の僧で朝廷より護国鎮守(ごこくちんじゅ-国を守りしずめる事)の任を受けていたそうです。



 北陸にはこのような僧が多い気がします。いや、逆にこのような僧を受け入れる気風が育った土地柄なのかもしれません。お寺や神社、慰霊碑などなんと多いことでしょう。
 武生(たけふ)の町に近づいたとき、地蔵が寝ている堂がありました。



 ここは地蔵橋という橋でした。織田信長の朝倉攻めの時、付近の地蔵はみな打ち壊しにあい捨てられました。その後ある僧が地蔵尊(そん)が自分の体を踏ませれば功徳(くどく)を与えるとの霊夢を見たことで橋を作ったそうです。お地蔵様が寝ていたのはその事を示していたのですね。
 萬慶寺(まんけいじ)に寄りました。天井絵が有名ですが誰もいないようなので休憩だけさせて頂きました。庭のしだれ桜が美しかったです。



 この日は武生駅まで歩き終了しました。寝不足もあり疲れました。(^^;)

         

      

 NO.17

     
福井宿~武生宿


  H31.4.22  約21km

 蓮如上人御影道中


 11時間の夜行バスの旅はさすがに疲れます。朝9時半頃に到着するとすぐには歩く気持ちになれず、店でゆっくり朝食を取りながら体を休めました。
 福井駅の壁には日本最大の恐竜化石発掘現場、勝山町があることから大きな恐竜の絵が描かれていました。楽しいですね。



 福井城跡にある県庁のお堀には、わずかに残った桜が名残を惜しんでいます。



 ふと町角に観音様があることに気がつきました。説明を読むと昭和20年7月の福井大空襲の時に郵便局電話課の職員23名が無くなった事を慰霊(いれい)する碑でした。あと1ヶ月で終戦だったのに。



 北陸道に戻りました。九十九橋(つくもばし)を渡ります。この橋は作られた当時「半木半石」の橋であったそうです。城を守るため橋を壊しやすくしたとか、川の北側には材木商が多く南側には石工が多かったからとの説もあります。
 この橋には首無し武者のこわい伝説もありました。知りたい人はこちらが詳しいです。



 狐川(きつねがわ)を越えると江端町に日吉神社がありました。境内(けいだい)には相撲の土俵や太った三猿(タヌキかな?)の像があります。おかしかったです。



 街道を歩いていると時々青いのぼりが見られるようになりました。
 そこには蓮如上人御影道中(れんにょしょうにんごえいどうちゅう)と書いてあります。何のことだろうと不思議に思っていると、お寺に集まっている方がいたので聞いてみました。するともうすぐ蓮如様の御影がご到着されるとのことでした。

 
 もし北陸街道を歩いてくるのだったら途中で出会えるかもしれないとわくわくした気持ちになりました。以前京都の大原で千日回峰行の修行僧を沿道で皆さんが待っている所に出会ったことがあります。私もその場で待っていると足早に歩いて来る僧のお姿とそれを迎える沿道の人の姿に感動したことを覚えています。そしてしばらくしてその御影道中と出会うことができました。