
早めに終了したので御着宿内にある古墳と国分寺跡を見学しました。やはり大きな街道なので歴史ある遺跡が見られます。
翌日は御着宿から出発です。宿場内には焼いた板壁の建物が見られます。
一部壊れていたところを観察すると土壁を覆うように板が張り付けられていることが分かりました。

山陽道一里塚跡の碑がありました。
街道名はその地ごとに変わっていきます。でも開発が進んでいることもあり、一里塚そのものは見ることが出来ませんでした。

姫路宿に入り進んでいると姫路城の堀に出会いました。城近くの内堀です。街道はその少し手前を左に折れ、宿場内へ入っていきました。

姫路宿は観光客も多い都市です。街道も大きな商店街のモールになっていて賑やかです。きっと昔の時代も賑やかな町だったのだろうと想像できます。

そしてここには有名な姫路城があります。別名白鷺城(しらさぎじょう)とも呼ばれる城は都市化が進んでいるため西国街道からは見られる場所が少なく、大手前通りを渡るときだけ見られました。

姫路城は南北朝の頃には簡素な城でしたが、戦国時代には黒田官兵衛の城として秀吉の中国攻めの拠点となりました。徳川時代には西方大名の反乱を防ぐ役割を持ち、明治期には陸軍の軍用地として残りました。戦争中には空襲も受けましたが奇跡的に被災を避け数度の大改修で今の姿があります。現在は漆喰(しっくい)が塗り替えられたことで美しい姿を取り戻し、白鷺城と呼ばれて世界遺産にも登録されています。今日もたくさんの観光客が訪れていました。

久しぶりの街道歩きは本当に楽しかったのですが、体が慣れないせいかつらいときもありました。下関にはいつ到着できるのだろう……。

NO.7
R5.5.9 加古川宿~姫路宿
美しい白鷺城
3年5ヶ月ぶりに加古川駅に立ちました。コロナの発生から外出を控えていましたが、ようやく西国街道に戻ってきました。3年5ヶ月という期間は私の気持ちや体力にどのような変化をもたらしているか少し心配でした。

あらためてコロナ前の到着地点へ行き出発しようとしました。ところが前回終了した地点がよく分からず、行ったり来たりしてしまいました。大丈夫かな?(^^;)

ともかく街道に戻り、いよいよ加古川宿を立ちます。街道は商店街のモールとなっており朝の開店準備をしているお店が多くありました。
昨日の雨も上がり天気は快晴です。加古川を渡ります。濁りがあり水の量も多く感じました。こんな時、川の渡しは大変だったんだろうと思いました。

魚橋東地蔵を過ぎると大きな岩山になり一枚岩の上に山所(やまじょ)の地蔵の案内があったので登ってみました。街道と平行する山道にはヘビが横たわっていて通せんぼをしていました。仕方が無いのでしっぽをつついてどいてもらいました。(^^;)

姫路市別所には六騎塚があります。南北朝時代に足利尊氏(あしかがたかうじ)が大軍を率いて九州から東上してくるのを備後上範長(びんごのかみのりなが)が迎え撃ちました。あえなく戦に敗れ残った主従六騎が阿弥陀(あみだ)宿辻堂で自害したとのことです。
御着(ごちゃく)宿に到着しました。ここには黒田官兵衛ゆかりの御着城がありました。黒田官兵衛は豊臣秀吉の家臣として仕え中国攻めで活躍しました。祖父がこの地で御着城主、小寺政職(まさもと)に仕(つか)えていたそうです。黒田家の廟所(びょうしょ)もあるそうです。

久しぶりの街道歩き本当に楽しかったのですが、体にはきつかったです。途中で今までには感じたことのない疲れが出て数多く休息することになりました。やはり体力が落ちているのかなとがっかりしました。一日目はここで終了しました。3万歩の歩きでした。
