明石城は二代将軍、徳川秀忠から小笠原忠政に西方大名への守りとして築城が命じられました。

 
 
 アクリルフィギア包装紙より 

 築城には幕府が1国1城を定めたことで廃城になった城からの材料が多く使われました。また天守閣は作られず現在も残る櫓(やぐら)が多数作られ実践的な城でした。また小笠原忠政は明石城下の発展に貢献し九州小倉藩主として栄転したそうです。
 1時間近くも見学してしまいました。先を急ごうと門を出るとき銅像があるのに気がつきました。



 つい誰だろうと説明を読んでしまいます。中部幾次郎公と説明があります。地方の一商店を日本有数の大洋漁業株式会社に育てた方だそうです。私の地元にもホエールズマートや系列スーパーがあり、お世話になっています。現在横浜DeNAベイスターズになっていますが、以前は横浜大洋ホエールズとして私の応援している球団もありました。思わず「ありがとうございました」とつぶやいてしまうのでした。(^^;)

 先を急ぎます。ふと気がつくと、ずっと海沿いで山が近くにあったのですがそれが見当たらなくなりました。住宅街の中をくねくねと西国街道は続いていきます。



 明石市大久保町で古く崩れそうな建物に出会いました。古いのですがモダンな洋館なのでびっくりして見ていると門の前に「明治天皇大久保卿小休所建物」の碑がありました。



 この建物は大久保宿で本陣も務めた安藤家の方が海運業で成功して建てた「安藤家洋館」でした。明治天皇は洋館で小休止されたのかと思っていたら、そうではなかったようです。でもこんな珍しい建物は保存して中が見られるようになればいいのにと考えてしまいました。

 魚住町には農業用でしょうか、ため池がたくさんありました。ため池の間を縫うように西国街道があります。



 加古川市に入り野口神社に寄りました。このあたりには野口城があり、秀吉に仕えた黒田官兵衛は播磨攻めの際にこの野口城も攻略しました。歴史で知る名前がここでも出てきます。



 加古川宿が今日の終着地です。夜遅く帰りのバス停へ向かう途中に古い民家の戸に灯りがついていました。むかし暗くなって宿場に着いた旅人は、こんな灯りを見てほっとしたのではないでしょうか。



      

      


    
   NO.6

R1.10.9 
大蔵谷宿~加古川宿


 海峡をのぞむ明石城



 この日は快晴の天気の中を出発です。明石大橋や瀬戸内海が明るく見えます。



 海岸沿いの道にはタイルで描かれた明石の鯛やワタリガニがありました。とても楽しめます。





 大きな標柱が立っているので説明を読みました。日本標準時 子午線(しごせん)通過地点と書いてあります。
 

 そうか昔教科書で読んだことがあると思い出しました。明治17年(1884年)ワシントンでの万国子午線会議においてグリニッジ子午線が決定しました。これを受けて日本では明治21年(1886年)東経135度の明石を日本標準時として決定したのです。
 しかし当時は子午線のことを知る人も少なく普及しませんでした。ところが22年後の明治43年(1886年)明石小学校の先生方が気づき、大事なことだと自分たちの給料から建設費を出し合い、この標識を建てたそうです。りっぱですね。

 明石城下に入り少し街道からは外れますが明石城に寄りました。現在は公園になっています。城内への急な坂道を登ると瀬戸内海や遠く明石大橋が見られました。