そして山道に入ります。古代山陽道の石畳が出てきました。きれいに並べられているので後に整備されたものだと思います。箱根の旧道にあった石畳はもっと荒れてでこぼこして滑りやすかったです。それでも石畳は街道の雰囲気をよく出していました。



 道は高速道路をくぐり、いよいよ山道になり残念社を目指します。人には会わないし、動物も心配ですが良い天気なので足取りは軽いです。道は荒れているところもありますが石垣沿いに迷うことなく進んでいきます。少し広くなった場所には「ざんねんさん砦」の新しい石碑がありました。ここは江戸末期、長州征伐の時の古戦場でした。



 そして藪から抜けさらに上に登っていくと右手に小さな残念社が見えてきました。変わった名前だなとずっと思っていましたが説明を読んで納得しました。
 長州征伐の折、幕府軍軍使として単騎で長州軍営を目指してきた丹後宮津藩士「依田伴蔵(よだばんぞう)」は長州軍に狙撃され命を落としました。死ぬ間際に「残念」と言って倒れたそうです。後に長州軍は遺憾の意を表しました。この地の村人は伴蔵の死を悼み祭ったそうです。残念社はそのことから名付けられました。



 ほどなく三県一望の地と書かれた看板のある見晴らしの良い峠に出ました。残念さんと名付けられています。またここにも依田神社の鳥居が建てられていました。見下ろすと瀬戸内海に多くの島が浮かんでいます。広島、山口、遠くに福岡が見えるらしいです。景色の良い素敵なところで海を眺めながら昼食を摂りました。



 山を一気に下っていくと海が近くなってきます。もう山はないだろうと予想していましたが、玖波(くば)宿に入る前にもう一山越えなくてはなりませんでした。登っていくと細い石畳の敷かれた道は枯れ葉で埋まった道となり、一里塚跡もありました。山の斜面に作られた街道はやがて山陽本線トンネルの上を越えていきます。あまり人が歩いていないせいか足元が悪く気を付けて歩いて行きました。


 
 やがて住宅が見えてきてさらに下るとすぐ近くに海が見えるようになり道のトンネルをくぐったところで玖波宿に入っていきました。



 玖波宿は江戸時代に安芸国最後の宿場として栄えましたが、慶応2年(1866年)長州征伐の時、負けた幕府軍を追撃する長州軍によってほとんどが焼き払われ宿場としての面影はなくなりました。残念ですが、その後復興した町には今も明治、大正の面影のある建物が残っていました。



 この日はここで終了し、帰途につきました。

      

      


    
   NO.24

R7.4.3
    
  廿日市宿~玖波宿


   残念社


 少し早めにホテルを出発して宮内駅に戻りました。今日も快晴で汗ばむような陽気となる予報でした。この日は山の中に入る行程でしたので少し緊張感を持って歩き始めました。



 廿日市市大野の戸石川橋の所に小さな観音堂がありました。疣(いぼ)観音堂と書いてあります。堂内には首の所に大きないぼでしょうか出っ張りが見えます。いぼとりを祈りながら線香の灰をいぼに塗るといぼがなくなるという伝えがあるそうです。



 道は次第に山際を歩くようになり、大野西国街道の標識も建てられています。途中道を間違えました。地図をよく見ると真っ直ぐ進んでいますが、その道は人一人が通ると道幅いっぱいになってしまうような細い道です。今まで車の通れる道を歩いてきましたので油断しました。(^^;)



 街道は家の裏手と山の境に続いていきます。小さな神社や中世豪族の館跡などもありました。大きな碑があったので説明を読みました。高庭駅家跡(たかにわのうまやあと)の碑でした。古代山陽道には約16kmごとに役人の宿泊や乗り継ぎ用の馬を準備する施設として駅家が置かれました。このあたりにそれがあったのですね。歴史を感じます。



 その後しばらく山沿いの道が続きましたが、山陽本線の大野浦駅に近づくにつれ町中となります。大野浦駅前には塩屋一里塚碑と今川貞世歌碑がありました。
「おおのうらを これかととえば
 やまなしの かたえのもみじ
 色に出でつつ」
 大野浦駅の名前はこの歌からとったそうです。



 駅を過ぎて少しすると急坂になり山の上に向かい始めました。ふと振り返ると海とカキの養殖いかだの美しい景色が見られるようになりました。