いよいよ大山峠越えに入る道に着きました。少し休憩をして気持ちを整えます。そして出発しました。



 しばらく登ると砂防ダムの工事現場に出ました。かなり大きくやっているため西国街道が分からなくなっています。迷って工事現場の方に声を掛けてみると、少し戻った工事事務所の横から入ることを教えていただきました。



 ここも広く木が切り倒されているため街道らしさはまったくありません。少し進むとようやく山道となりピンクの目印テープが現れました。街道に戻れてほっとしましたが、進むにつれ道が大きくえぐられ、どこが道なのか分からない状況になりました。



 それでもテープをたよりに進んで行くと意外と早く峠が見えてきました。案内板には3世紀後半の日本書紀に「西道」のことが書かれていて、弥生時代にはこの道があったとされています。大河ドラマ光る君への中で描かれた元寇(げんこう)の急変を京に知らせる早馬も大山峠を通り、明治維新の志士・吉田松陰や高杉晋作もここを通って京へ上った重要な道であることが記載されていました。



 下りになると更に道は荒れ、木が倒れ、深く掘られた溝を下っては登り返すを繰り返します。足の感覚がしびれるほどきつくなってきました。どうしてこんなに荒れているのだろうと考えてしまいました。



 山道も終了する頃、地元の人と出会いました。その方によると街道の荒れは近年の豪雨災害によるものだそうです。
 ニュースでも報道されたように地球温暖化による集中豪雨が頻繁に発生するようになりました。広島県は2014年、2018年、2021年、豪雨災害に見舞われています。大量の雨は山の土砂を押し流し下流域の住宅街を襲い、人命も奪いました。街道の荒れもこれが原因でした。つらいですね。でも地元の方は復旧を行い砂防ダムを作るなど負けずに頑張っていました。



 大山峠越えの最後の方に大山刀鍛治の墓がありました。天正年間にこの地で名刀を作っていた宗重という刀鍛治の家があったとされています。でもここも豪雨で無くなったとのことです。



 旧山陽道代官おろし跡の碑がありました。大山峠に登る道があまりに急なためどんな権威ある人も駕籠から降りて歩かなければならなかったという場所を示したものでした。



 12時頃、山道を終えて昼食としました。ほっとしました。その後は街道を瀬野駅まで長い道のりを歩きました。3万1千歩、約18.6kmを歩いて終了し、帰宅の途につきました。無事に歩けたことを感謝しました。


      

          
   NO.21
R6.12.18
    
  西条四日市宿~瀬野


   大山峠越え


 8時、西条四日市宿を立ちます。空は曇り寒い日となりました。昨日までの歩きでくるぶしの痛みが残り、くるぶしをハンカチでくるみ、その上に靴下をはきましたが、十分ではなくそろりそろりと歩きます。大山峠を越えられるか不安の残る出発でした。



 歩き始めてほどなく真光寺がありました。浄土真宗のお寺で親鸞聖人(しんらんしょうにん)の像が建っています。明治時代に3代前の住職がハワイへ開教師として渡り布教に尽力したことでハワイに縁のあるお寺だそうです。ともあれ親鸞聖人に今日の峠越えの無事をお願いしました。



 県道486号線に入りしばらく歩いて西条町友待橋の交差点から人家が少なくなる西の方向へ歩きます。黒瀬川を渡ると前方に小高い丘が見えてきました。



 この丘の人家が途絶えた坂の上に飢坂(かつえざか)の案内が出てきました。江戸時代、飢饉の時にここで多くの人が飢えで力尽きて亡くなったことからこの名前がついたそうです。慰霊する祠もありました。東側の寺家では炊き出しを行って人々を救ったことも書かれています。



 坂を登り切ったところに峠池がありました。サイジョウコウホネという睡蓮のような花の群生地となっていて、峠で亡くなった人々を慰めているそうです。こんな美しい池の風景に飢饉の話しは悲しいですね。


 
 峠池を過ぎて道が見えないほど落葉で覆われた坂の終点に飢坂の碑がありました。ここが多くの人が亡くなった峠になります。少し黙祷して先に進みました。



 坂を下ると再び住宅地となりその後は町中を歩いて行きます。痛む足と相談しながらの歩きでペースは遅くなりました。街道は八本松駅の線路を越えて、その後線路沿いに進みます。そして再び線路を越えて住宅街を通り大山峠のある山に向かいました。