でもこんな山道を通らなければならないなんて、大井川もそうだけど徳川幕府はみんなの便利さより、地方大名が江戸へ登りにくくすることの方が大切だったんだと感じました

さあ東海道の難所、大井川に出ました。「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」とうたわれた川です。現在はダムなどもあり水位の調節もできますが、当時は水量も多く、雨が降ると川止めで渡ることができませんでした。

そのため川を渡るには川越人夫(かわごえにんぷ)による渡河(とか)が必要でした。


お金もかかります。大井川の渡しは川の深さによって料金が変わります。股下で48文(1440円)腰で68文(2040円)脇下で94文(2820円)です。図のような連台はさらに高くつきました。

何日も雨が降ると川の両側の渡し場近くの宿場に泊まり続けなければならず、渡る順番を決める川会所の役人もいました。

島田宿には大井天満宮があります。大井川の氾濫(はんらん)に悩まされた宿場の人たちが守護のために建立(こんりゅう)しました。天満宮で変わった像を見ました。鹿島踊りというものだそうです。出で立ちがすごいです。

昔島田に嫁いできた花嫁が晴れ着姿を宿場内に披露していましたが、花嫁の大変さもあり、いつしか帯を大奴(おおやっこ)が木の刀の柄にさげて披露するようになったとのことです。そのことで良い帯を求める人々や商人が集まりファッションショーのようなお祭りとなりました。
いろいろな物語がありますね。
NO.17 H18.12.29
掛川宿~島田宿 約24km
越すに越されぬ
大井川
日坂宿(にっさかしゅく)を通り小箱根と呼ばれる上り下りの多い茶畑の中の道を歩きました。茶畑の中は爽(さわ)やかでしたが急坂では汗が出るのでした。



中山峠の茶屋は子育て飴(あめ)で有名です。ベンチに腰掛けて昼食を食べていると犬が寄ってきたので一緒におにぎりを食べました。するとその犬は夜泣き石での写真撮影も一緒にしてくれました。(^_^)
夜泣き石はお金を奪われ殺された妊婦の魂が石に宿り、夜な夜な泣いたと伝えられています。生き残った子供は飴で育てられ成長して刀鍛冶となったそうです。


中山峠を下ると菊川です。宿場と宿場の距離が長いときには簡易的な宿場「間宿(あいのしゅく)」が置かれました。山の中に突然現れるような集落で心細いところに見えた家屋はほっとするものでした。

