街道は厚東川の手前で左に折れ、少し先で二股瀬渡し場になります。現在は水量の少ない様子ですが、当時はどうだったのでしょうか。

渡し場近くに男山という銘柄の酒を造っている永山本家酒造がありました。永山家の歴史は毛利家旗本まで遡るそうです。銘柄は灘の酒蔵から商標を買い取ってつけたものですが、酒は人気があったそうです。現在でも山口県は日本酒販売量が増加しているそうです。頑張ってますね。(^_^)

街道は国道2号線と合流するとしばらく平行するように狭い道が続きます。宇部丸山ダムを過ぎたところで「どんだけ道」の案内標識があり山道に入ります。どんだけ道は飛鳥時代(600~700年頃)に大路という最大の幹線道路として整備され、江戸時代には山陽道として殿様が通る道として使用されました。そのため殿様道がなまってどんだけ道となったそうです。(^_^;)


山道は長く続かず、開けた田んぼに出たりしながら続きます。その田んぼにはイノシシの被害から守るために動物柵が設けられています。柵を開けてはいるときはあまり気持ちのいいものではありません。そこに入ればイノシシたちと一緒の檻に入ったことになるからです。

その道にはイノシシが土をほじった穴や足跡がはっきり残っていました。

県道の宇部美弥線を越えると山陽道は田んぼに沿った道となります。山陽道の案内標識が多くあって間違うことがなくて助かります。

この近くに吉見山陽街道一里塚の石碑がありました。ここにはかつてオカツ茶屋があったそうです。行き倒れた浪人の娘オカツは茶屋で働くことになりましたが、気立てのやさしい美人のオカツは評判となり茶屋は繁盛したということです。

右舟木、左山中の案内を見て舟木の方角へ向かいます。この日は再び出た国道2号線の厚東駅付近で終了しました。

駅は付近にあり新山口駅まで出て新幹線で帰りました。夜8時過ぎの帰宅となりました。あと1回の日程で終点に到着するめどが立ちほっとする気持ちと同時に少し寂しさも感じてしまいました。

NO.30
R7.12.3
小郡宿~厚東駅
どんだけ道
三日目の歩きとなりました。この日も8時に出発し、すぐに山陽道に戻ります。人の少ない道が続きます。

天気は陽が差してはいるのですが雲の動きがあやしく少し心配です。予報では雨が無くなっているので降らないことを祈りました。

山口市嘉川の街道のたたずまいが感じられる建物の前に一里塚の碑がありました。小瀬川より二十三里、赤間関より十三里と書かれています。残りあと十三里(約52km)で西国街道の終点なのだと感慨深い思いでその数字を見ました。

山口市江崎の街道横に熊野神社がありました。ここには鎌倉時代から嘉川八幡宮があったところですが、その後いくつかの神社が合祀され現在の熊野神社となっています。当時この地を治めた大内氏は熊野神社を勧進し祈願なども行いました。その大内氏は先に歩いてきた茶臼山にて滅んでしまいました。平家物語の盛者必衰という言葉が浮かびました。
今、自分はその平家が滅んだ壇ノ浦方面、下関に向かっています。
しばらく歩くと中国自動車道嘉川インタ-チェンジが街道を分断していました。歩道が整備されているのですがトンネルになっていたり金網で制限されていたり方向感覚が狂います。何度も確認しながら歩いて行きます。

道は国道2号線を歩いて行きます。やがて峠が見えてきました。ドライブインがあり、その名前は「おいはぎ峠」でした。そんな名前の峠道があったら山陽道を旅する人たちには恐ろしいところだったでしょうね。(^_^;)

上山中下之橋に小さな地蔵堂があります。ここから少し川沿いに歩く道となっています。少し雨が降ってきました。天気雨のようでときどき強くなったり晴れたりします。でも1時間ほど歩いているので川辺に腰掛けて休みました。この休憩をとることで長い時間の歩きに耐えられるようになります。

寒くもなっているので長い時間は休めませんがおやつを食べて少し元気が出ました。山中宿に入りました。名前の通り山の中に作られた宿場です。何もない山中でこの宿場があることで心強かったことと思います。

