周南市戸田の町には戊辰戦争凱旋記念碑がありました。堅田領主の兵(戸田出身)が奥州に出征し無事に戻ったことを記念して建てられたそうです。大変な時代でした。

国道2号線椿峠を超えるときに地図ではあるはずの道が途中でなくなっていました。ものすごい竹藪の道となり仕方なく30分進んだ道を引き返しました。どっと疲れが出ました。(-_-;)

峠を越えて道が下りになると遠く海が見えそこが富海(とのみ)宿でした。急に元気が出て足が軽くなります。富海宿は江戸時代末期に維新の志士たちを飛び船といわれる飛脚船で大阪まで運ぶ場となっていました。現在は静かな町で海水浴場もありますが海水浴に来る人は少ないそうです。

富海宿を出ると県道58号線と山陽道が接するあたりに旧山陽道橘坂(たちばなさか)の案内板があります。ここからしばらく山道となります。鈴の用意をしました。
道は地元の方々がよく整備していて歩きやすい道でした。茶臼山に向かってゆっくり登っていきます。この茶臼山の麓(ふもと)あたりに古戦場の案内がありました。毛利家が勢力を拡大している中で大内輝弘が反旗をあげこの地を占領しようとしたところ、毛利家の吉川元春の反撃に遭い敗北した場所でした。暗い森に大内氏の石碑がありました。

途中石畳の道もあり昔からよく整備された街道でした。1時間ほど歩いて浮野峠を越えると下った先は今市宿となります。

防府(ほうふ)市に入り町中に防府国衙(こくが)跡がありました。広い敷地が国指定史跡公園として保存されていました。
大和朝廷から認められた古代周防国(すおうのくに)に国司が派遣され行政をつかさどった役所(国府・国衙)のあった所です。律令時代(701年から200年ほど)に存在した国府だそうです。そんな昔から重要な場所だったのですね。

山陽道はその国府の真ん中を通っていきます。突き当たりのあたりに毛利氏庭園があったので遅い時間でしたが寄ってみました。
明治維新後、藩主は東京在住を命じられましたが、やがて国元居住が許されるようになり、元藩士の井上馨等によって選定されたこの土地に当主の毛利元徳(もとのり)公の住まいを作りました。屋敷は広大な敷地に庭園もある素晴らしいものでした。現在は国指定名勝となっています。

屋敷二階の書院からは雄大な眺めが見られ、しばらく立ち止まって暮れていく空と景色に感動していました。


この日は防府駅近くまで歩き、7時出発から17時到着の10時間行動となってしまいました。よく身体が持ったなと自分で感心しました。(-_-;)

NO.28
R7.12.1
徳山宿~今市宿
茶臼山古戦場
今年5月に歩きに来て以来になりました。6月には気温が高くなり危険と思われるような日差しに怖じ気づいてしまいました。70歳という年齢がそうさせてしまうのかな?暑さのため所属している体操協会の行事がみんな秋になって街道歩きは冬に行うしかありませんでした。言い訳ばかりも年のせいかな?(-_-;)

天気予報で3日目に雨の予報が出たため時間を早めて7時に徳山を出発しました。少し長く歩いて3日目の距離を少なくしたいと考えたからです。
30分ほどで山が近く見えるようになりました。12月というのにこの日は暖かく1時間も歩くとシャツ一枚でも大丈夫な陽気です。道の斜面には野朝顔が元気よく咲いていました。

富田川を渡り山陽本線の新南陽駅を過ぎたところに山崎八幡宮があったので休憩も兼ねて寄ってみました。
709年頃の起源で毛利元就も戦勝祈願をしたという由緒ある神社です。境内では花手水が美しく神社では初めて見る景色でした。


福川宿に近くなり道の間から海が見えました。護岸されているため分かりづらいのですが地図では近くに港がありました。埋め立てられ建物がいっぱい建っていますが昔は街道のすぐ近くまで海だったように思います。山陽道は海添いには道が作りにくかったせいか山の方を通ることが多いので珍しいです。
福川宿は漁村としてありましたが、山陽道が整備され宿場としての機能を持ちました。本陣も置かれ幕府要人や西国大名が参勤交代で使用する大切な宿場となったそうです。本陣の門が残っていました。

道は夜市(やじ)川ぞいに進んでいきます。一里塚があったところですが見つかりませんでした。深い緑の川には鯉が泳いでいました。

川から離れると道は山を越えていきます。短い距離ですが急に人の気配がなくなりイノシシなどの心配が出てきます。森の中を抜けて人家が見えてくるとほっとします。(^_^;)

