街道脇に子育て地蔵があり熱心にお参りしている人がいました。最近のニュースには子供を虐待することがたくさん報じられます。でも子供が健康で無事に育ってほしいと思う親の気持ちの方が絶対に多いのにと考えてしまいます。 



 街道は小田急線梅ヶ丘駅付近を通過します。鎌倉時代の人がみたらどんな思いになるのかな(^^;)



 大山街道追分の碑がありました。鎌倉街道は江戸時代に大山詣でが盛んだったことで大山街道とも呼ばれました。



 多摩川に出ました。ここは渡しのあった場所ですが川幅も広くダムの無い頃には流れも急だったと思います。危険を乗り越えてまでいざ鎌倉と急いだのですね。



 多摩川を越えたところに二子神社がありました。鎌倉時代よりは新しく作られたので当時は無かったのかもしれませんが、無事に川を渡れるように祈ったり、無事に渡れた感謝の気持ちを伝えたりするためには必要だったのかもしれませんね。
 境内には彫刻家の岡本太郎、建築家の丹下健三が協力した「誇り」というモニュメントがありました。岡本太郎の父母がこの地をこよなく愛したことから創作し命名したそうです。



 鎌倉街道は都内では消滅してしまうことも仕方が無いことなのだろうと思います。でも地図を縮小してみると鎌倉へほぼ一直線に向かっていることが分かります。鎌倉へ向かう人の気持ちが少し分かるような気がしました。 




      

   
  
NO.4  千川~二子神社
  H31.3.9  約18km
 

  子育て地蔵 



 今日は一日風が強く花粉がたくさん舞っている日でした。前回の終わり頃に見た水道の給水塔と同じものがここでも見られました。



 少し風情のある通りを歩きます。道は昔の鎌倉街道が消滅している事が多いのでその近くをなぞっていきます。ここ中野区上高田は「たきび」のうた発祥の地だそうです。作詞者の巽聖歌(たつみせいか)は武蔵野の面影が残るここで「たきび」のうたを作ったそうです。



 新中野中央の商店街を行きます。



 道の脇に箱形の石があるのに気がつきました。これは江戸初期の「上水道用留めマス」だそうです。江戸の町を作るとき神田上水を整備しました。64kmにもおよぶ木樋(もくとい)と3600あまりのマスを敷設(しせつ)したそうですが、このマスは石造りなので万年マスとも呼ばれたそうです。このあたりでは水道に関する施設をいろいろ見ます。



 多田神社に寄りました。中野区南台にあるこの神社は雑色村と呼ばれる鎌倉街道脇にあったようです。雑木林がたくさんあったのでしょうか。




          

                                 

 
              (なかつみち)