この日、朝4時起きして善光寺に向かいました。お朝事にはまだ早いのですが善光寺にはすでに参詣の方々や掃除をしているお寺の方が来られていました。私は境内(けいだい)をめぐり各お堂の様子を見ていました。
 すると一人のお坊さんが善光寺にある各所のお堂、そして本当に小さな仏像の一つ一つに手を合わせ、何かをつぶやいています。善光寺の中には一体どれだけの手を合わせる場所があるのでしょうか。長い時間各所を歩いた後、そのお坊さんは本堂に入りました。そしてご本尊のある柵の外側、内陣と呼ばれる一般の人が参詣する畳に正座し動かなくなりました。眠ってしまったのかと思うほど動きません。その間に他のお坊さん達がたくさん集まってきます。善光寺の全てのお坊さんによる勤行が始まろうとしていました。
 私はそのお坊さんの後に座ってお朝事を待っていました。やがて深々と一礼したお坊さんは立ち上がると、私に気付き自分が座っていた最前列へ来るように勧めてくれました。私は指示に従って前に座りしばらくするとお朝事が始まりました。
 たくさんのお坊さんが向かい合って座り、低く響く声が静かにお堂に流れます。その間にご本尊に捧げられる品物などが運び入れられたり、ろうそくの火が増えたりします。すると先ほど私の前に座っていたと思われるお坊さんが中央の席に座りました。読経が始まると御本尊の幕が上げられ読経の声は一段と高く響きます。目を閉じて聞いていると京都で聞いたあの響きが思い出されました。心地よい響きです。これらの声はあのお坊さんのように一つ一つの仏像に手を合わせ、毎日の修行により自分を高めている人達だからこそ出せる声なんだと思いました。その読経は多くの人々を感動させる力を持って朝の善光寺に響いていました。

 お朝事が終わりました。私は一礼して帰ろうとするのですが立てません。強烈にしびれた足はしばらく私の身体では無くなっていました。(-_-;)




   



                        
   H29(2017).8

   善光寺参り

 平成17年(2005)5月、東海道歩き出発前に京都に一泊したことがあります。前日の夕方東山区の智積院を訪れている時に読経(どきょう)の声が聞こえました。その声に引かれるように大きな建物の方へ行ってみると建物の中から大勢のお坊さんの読経が聞こえました。縁側へ上がり開いている障子の隙間からのぞくと2列に向かい合ったお坊さん達が一心に読経をしています。その唱和した声のあまりに荘厳(そうごん)な響きに私は思わず縁側に正座をし聞き入ってしまいました。
 お経のことは何も分からない私ですが、目をつぶり聞いていると本当に心地よいのです。しばらくすると縁側に座っている私に気づいたのかお坊さんが出てきて中に入るように勧めてくれました。私はお礼を言い本堂の中で正座をしてその読経を聞きました。その声は本堂の中に反射して一層の荘厳さが感じられ感動しました。昔、娯楽の少ない時代にはこの読経は心を揺さぶられる素晴らしい場だったのかも知れません。修学旅行や個人旅行で幾度となく訪れた京都でしたがこのような場に出会ったことが無かったので本当に良い経験になりました。

 平成29年8月、北国街道歩きの途中長野に宿泊しました。長野は牛に引かれて善光寺参りで有名な善光寺があります。その善光寺ではお朝事(あさじ)という朝の勤行(ごんぎょう)を公開しています。勤行は365日欠かさず儀礼正しく行われる修行です。このお朝事を参詣(さんけい)するため地元の人はもちろんですが、全国より多数の人が来られます。