宮城県の山元(やまもと)町に入った時、学校があるのに気がつきました。近寄ってみると被害を受けた中浜小学校でした。この学校の校舎は2階までもが津波で破壊され無残な状態でした。幸いこの学校の子ども達と先生方は屋上に避難して、全員が翌日無事に救助されたそうです。
 近くの大きな木に何本ものロープが張られ黄色いハンカチがたくさん風にはためいていました。黄色いハンカチは愛する人の帰りを待つという意味を持っています。
 すぐとなりにはやはり多数の名前が刻まれた慰霊碑がありました。この近くを走っていた常磐線はまだレールもなく、復興のめどが立っていないそうです。車で走っているだけなのになんだか本当に疲れました。
 この日は松島に泊まりました。日本三景と言われる松島は被害が少なかったそうです。松島湾内にある数多くの島が堤防(ていぼう)の役割を果たしたため浸水(しんすい)は海岸から40mほどの道路で止まったそうです。
 宿で何気なく読んでいた河北新報(かほくしんぽう)という地元の新聞に被災者からの投書が掲載(けいさい)されていました。

「震災から3年が過ぎ各地で復興が進んできました。私達はもう被災者ではないのかもしれません。でも仮設住宅に住む人達はまだたくさんいて仕事も思うようにいかない人もいます。ニュースも取り上げず私達が忘れられていくことに不安を持っています。私達を忘れないで下さい。」
 このような内容でした。支援をして欲しいとは書かれておらず、忘れて欲しくないと書かれていました。この思いを受け止めてあげたいと思いました。

 翌日更に北へ向かいました。石巻(いしのまき)工業港は大きな港です。優先順位が高かったのでしょうか、各所に残がいは残っているもののほとんどが新しい建物となり事業を再開していました。
 仙台空港や塩釜(しおがま)の港も大きな被害を受けた所ですが、ここもいち早く復興していました。道路にはまだ復興事業内容を知らせる布を貼ったトラックが多数行き来していて、まだまだ復興半(なか)ばなんだと感じました。
 私達は仲間が頑張っている姿をいつまでも見守っていてあげられるそんな優しさを持ち続けていくことが必要なんだと思いました

被災地を訪れて 

みちのくの出会い 

     
                

                        
 H26(2014).8 

 私達を忘れないで

 今年の夏休みは福島県相馬(そうま)市から宮城県牡鹿(おじか)郡、女川(おながわ)町まで海岸沿いに車で走りました。
 平成23年3月11日に起きた地震によってこれらの地域は大きな被害を受け、現在もなお復興中です。いつか現地へ行ってこの目で被災した土地を見て、土地の人達の話を聞き、皆さんに伝えることが出来たらと思っていました。

 福島県相馬市に行くには海岸沿いを走る常磐(じようばん)自動車道で行くことが早いのですが現在もなお一部通行止めになっています。その区間には福島第一原子力発電所があるからです。
 私は東北自動車道福島インターで降りて相馬市に向かって走り海岸まで出ました。海岸に近づくにつれて家の基礎しかない土地が現れました。建っている家はみな新築ですが、数はまだ本当に少ないです。
 船が接岸する岸壁はまだ一部壊れたままです。少し走ると新しく建てられた津波避難塔(つなみひなんとう)と慰霊碑(いれいひ)がありました。車を降りて慰霊碑の前に立つと250名の名前が刻まれた碑の前に花が添(そ)えられていました。一度にこんなにたくさんの人が亡くなったのかと思うと手をあわさずにはいられませんでした。
 その後もこのような慰霊碑は各所に有り多数の名前が刻まれていました。本当に重い気持ちになりました。