平成17年(2005年)4月2日今回の旅の最終目的地である京都に夕方到着しました。本当に嬉しくてみんなに電話で到着を報告したものです。   
  

 仕事の合間、月に一回のペースと1日20kmを目標にして3年と1ケ月かかって到着した京都の街は今まで訪れてきた京都とは感じ方がずいぶん違いました。今よりもっと不便で困難な旅をしてきた人はこの地に立った時の感慨はひとしおだったと思います。

  終わりは始まり

 いつの間にか始まったこの旅は今後の私の人生に於いて大きな意味を持つものとなりました。自分の可能性や計画性、実行力を育てる良い契機となったからです。
 次は・・・旅の終了と共に次の目標を考えている私でした。

  
       



        
  歴史の道を歩く
 名古屋に近づくと桶狭間の古戦場がありました。今自分が立っているところが歴史の教科書に載っている場所だということに感動を覚えました。

    

 そしてその片方の主人公である織田信長の清洲城、東海道は歴史の道です。
  

 街道歩きも季節によっては厳しい時もあります。31回目のこの日は雪が残った道を歩きました。街道沿いの安土城も雪にまみれ厳しい歩きとなりました。
  

いよいよ京都が近づいています。

           
   山を越えて
 小田原を過ぎると道は海には沿っていますが山の道となりました。ミカン畑の道は遙か下に相模湾の海が見え、とても気持ちのいいものでした。道沿いに熱海まで行ったところでこのままだと伊豆半島をぐるっと回ることになり、東海道線からも離れてしまうことから山越えを決意しました。
  

 この日は二人の子どもが一緒に歩きましたが、あまりのきつさに今後一緒に歩くことが少なくなりました。(^^;) 
  

 静岡では富士山の姿がいつも見られ癒やされました。薩埵峠(さったとうげ)の富士は長く旅をしてきた人がようやく江戸に近づいたとほっとする所だったり、京へ下る人が名残の富士を見られる所だったのかも知れません。きっと一休みをして眺めたことと思います。私の旅も一年が過ぎようとしています。回数も14回となりました。  

 道は茶畑を通り、浜松へと向かいます。途中富士川、天竜川、興津川、安倍川、大井川など大きな河川が道を妨げますが、当時は橋が無く、渡しの船か徒渉をする事になり、かなり危険も伴ったことでしょう。またお金もかかったと言われます。徳川幕府は防衛のため人々に不便を強いたことが様々なところで感じられるのです。
  

 浜名湖を過ぎると内陸へ向かうため海とはお別れになります。この頃には京都へ向かうことに目標を変更していたため、海沿いに旅をすることをあきらめざるを得ませんでした。

              
                                                
H14(2002).4~H17(2005).4

春の陽気にさそわれて

 平成14年(2002年)3月の日曜日、暖かい春の陽ざしに誘われるように散歩に出かけました。新しい中学校への転勤が決まった春休みの日です。ずっと部活動をやってきたのですが、新しい学校では体操部がなく、剣道部の顧問となることになりました。その学校の剣道部は近くの道場が大変強く、そのため市内や神奈川県の大会でも上位に入ることが多いのです。
 しかし練習は学校で行う事が少ないため休日はぽっかりと空くようになります。こんなことはほとんど無かったため、「どうしようかなあ」と何のあてもなく駅の方に歩き始めました。駅まで行くと次はどうしようかと迷ったあげく、線路沿いに歩いて行くことにしました。天気が良く歩く道すがらには桜が見られ、本当に久しぶりにのんびりとした気持ちになりました。
   
 歩いてみると新しい建物や寄ったこともない神社など新鮮な景色が次々と現れとても楽しい気持ちになりました。健康にもいいし、こんな散歩もいいものだなと楽しみながら歩いているといつの間にか2駅分を歩き終えました。この日は電車で最初の駅まで戻り自宅へ帰ったのです。これが東海道歩きの第一歩となりました。
 その後線路沿いの歩きは続き、4回目には茅ヶ崎の海に出ました。海はとても気持ちよく最高でしたが、ここでこれからどうしようと悩んでしまいました。

    
 そして考えた上でこのまま海沿いに行けるところまで行ってみようと決心しました。東か西かと決めなければなりません。東に行けば東京、西に行けば静岡、そこでは西を選びました。
長い距離を楽しむことができるというのが理由です。今度は相模湾に沿って歩いて行きます。