

石山寺は琵琶湖の南端近くに位置し、琵琶湖から流れ出る唯一の瀬田川の右岸にあります。瀬田川は宇治市の天ヶ瀬ダムから宇治川と名称を変え、京都府と大阪府の境で桂川、木津川と合流し淀川となって大阪湾に注ぎます。。
石山寺の開基は天平19年(747年)良弁僧正によります。天然記念物の石山寺硅灰石(けいかいせき)という巨大な岩盤の上に本堂などが建てられている東寺真言宗の大本山の寺院です。令和3年(2021年)長い歴史で初めての女性座主、鷲尾龍華座主が誕生したそうです。
今年のNHKの大河ドラマ「光る君へ」の主人公、紫式部がここで「源氏物語」の着想を得たとされていて、本堂の合の間には「紫式部の間」もあります。他にも平安時代に書かれた「枕草子(まくらのそうし)」「蜻蛉(かげろう)日記」「更級(さらしな)日記」にも石山寺の名が登場するなど平安文学と深い関わりがありました。日本には古くから活躍する女性作家がいたのですね。大河ドラマにより興味を持った石山寺ですが、テレビの影響はすごいですね。(^^;)



「急がば回れ」ということわざは聞いたことがあるかも知れません。草津宿に近い矢橋港から大津港まで舟で行く東海道の短縮コースとして使用され、唐橋回りの半分ほどの時間ですみました。ちなみに私は4時間ほどかけて歩きました。でも冬から春は風が強く舟が欠航となることもあったそうでやはり「急がば回れ」だったのでしょう。
その大津港にほど近い所に明治時代、琵琶湖疎水(そすい)が作られました。滋賀県大津市から京都府京都市へ琵琶湖の水を流すために使用された水路です。京都の蹴上げには水力発電所がありますが、この琵琶湖の水が使われていました。現在でも琵琶湖の水は京都になくてはならないものですが、近年琵琶湖の水量が減って大きな問題になりました。



三井寺は天台寺門宗の総本山としてあります。歴史は古く670年頃、飛鳥から近江大津に都が移されたことが契機となり寺が建立されました。当初は園城寺と呼ばれていましたが、その後天皇の産湯に用いられた霊泉のあることから御井の寺、三井寺と名称が変わりました。境内は広く国宝の金堂をはじめ、重要文化財がたくさん残っています。一通り見て歩くだけでも1時間はかかってしまいました。



最近新しい観光スポットとして注目を浴びています。ロープウェイで登った1108mの打見山々頂にあるテラスでは琵琶湖を一望でき、そこにあるカフェで珈琲を飲みながらゆったりとして素敵な時間を過ごすことができました。
隣の蓬莱山はスキーも楽しめるので外国人観光客の皆さんがたくさん来ていました。琵琶湖西岸は雄琴温泉もありますが、観光では少しひかえめな気がします。それでも近江大橋付近の浮御堂や中央部の白鬚神社が見学地としてありました。



琵琶湖周航の歌
瑠璃の花園 珊瑚の宮
古い伝えの 竹生島
仏の御手に抱かれて
ねむれ乙女子 やすらけく
と歌われた竹生島(ちくぶじま)には是非行ってみたいと思っていました。
琵琶湖北部の無人島で琵琶湖では2番目の大きさになります。島には宝厳寺(ほうごんじ)、竹生島神社があり観光の中心となっています。神亀元年(724年)聖武(しょうむ)天皇が夢枕に立った天照皇大神(あまてらすおおみかみ)の言葉により建立されました。平和で豊かな世界が造られるとのお告げでした。
竹生島には船で渡ります。島の上に続く階段は少しきついですが、登ると山上には本堂や三重塔があります。また豊臣秀頼が京都から移築した唐門は国宝に指定されています。令和に入り屋根の葺き替えや塗装の修復など行われ、きれいになったそうです。とても神秘的な雰囲気のある竹生島でした。

2024.2
び わ こ
街道歩きの際、東海道、中山道、北陸街道を京都に向かっていると道は琵琶湖(びわこ)に通じます。広々と空が開け、京都がもうすぐだと喜びを感じる場所でした。

琵琶湖は滋賀県にある日本最大の淡水湖です。およそ400万年もの長い歴史をもつ日本最古の湖で、世界中で20ほど存在する古代湖のうちの一つです。南北の長さは約60km、東西の幅は約20km、一番深い所の水深は約104mで周囲は約200km、自転車で走ると1泊2日の行程になるそうです。

琵琶湖の東側は昔の東海道、中山道、北陸街道が通る場所で、現在でも名神高速や東海道新幹線が通り日本の東西を結ぶ交通の要衝です。私の好きな鳥人間コンテストも毎年行われ親しみがあります。また歌い継がれた「琵琶湖周航の歌」は京都大学漕艇部がこの湖で合宿を行う中で生まれた名曲でした。私が見て感じた琵琶湖を紹介します。



北陸街道を琵琶湖に向かい栃の木峠を越えて来ると木之本宿に入ります。山を越え店が並ぶ通りに入るとウキウキした気持ちになりました。商店街、木之本地蔵尊、琵琶湖まであと少し、明るさの感じられる宿場でした。



長浜宿は羽柴秀吉が作った町です。姉川合戦以降の天正2年(1574年)頃から戦禍で荒廃した土地に町を作り、各地に散らばっていた商人や職人を集め城下町として仕立て上げました。また秀吉により税を免除された長浜は大変栄えたそうです。そのため秀吉を慕う者が多く徳川幕府となってもその人気は衰えなかったと言います。この宿場は東海道や中山道の宿場のように重々しさを感じませんでした。太閤さんのおかげかな。



街道からはそれますが彦根城へ登城しました。天守閣からは琵琶湖がよく見えます。彦根城は近江国にある井伊直政を藩祖とする井伊家の居城です。城が完成したのは息子の直継の代になってからでした。現在天守閣が国宝指定された五城(他犬山城、松本城、姫路城、松江城)に入っています。昭和20年8月15日の夜に連合国軍が空襲を予定していたのですが終戦となり無事でした。不思議な運命を感じました。1992年(平成4年)世界遺産登録に向けて動き出しましたが、現在まで登録はされていません。



瀬田の唐橋は日本書紀にも登場する江戸時代以前に架けられた日本三大古橋(瀬田川に架かる唐橋、宇治川に架かる宇治橋、淀川に架かる山﨑橋)のひとつです。現在は架け替えられていますが、「唐橋を制する者は天下を制す」と言われるほど交通の要衝にあり幾度となく戦乱の舞台となりました。 街道歩きの時、京都へ向かって橋を渡るときに意気揚々とした気持ちになったことを思いだします。

