翌日観光が始まるのですが熊が出没しているという情報が入ってきました。この利尻島には近年熊は生息していませんでしたが、今日行くところの姫沼周辺に糞(ふん)などがあったと言うのです。数日後ニュースで専門家の判断で利尻島に熊が入ったという結果が報じられました。本土から19kmの距離を泳いで渡ったとみられています。どんな理由で19kmもの海を泳いで来たのだろう?すごい泳力ですね。

利尻島では利尻富士に登りたい気持ちもありましたが時期が早いことや、ツアーであるため登れませんでした。正しくは利尻山(1721m)ですが、登山は夏に行われ高山植物が多く見られます。この山に入る注意としてストックにはキャップをつける、携帯トイレを持参することが必要です。当然コースから外れることは許されていません。高山植物の保護が必要なのですね。今後は熊の注意も必要になりました。
利尻島はほぼ毎日風が吹いています。吹く方向によって風の名前も変わります。この日は北西からの風タマカゼが吹いていました。その後風向きが変わり南からの風クダリとなりました。春の風は雪解けを進め、夏の南西からの風ヒカタをうけて昆布干しが行われます。冬のタマカゼは風雪を伴い、時にはフェリーが何日も欠航することもあるそうです。

この後、利尻島ではオタトマリ沼に寄ったり美しい海岸にも立ち寄りました。海岸では餌付けがされているアザラシにえさをあげて楽しむことができました。

午前中に利尻島沓形(くつがた)港より礼文島に向かいました。海上はやはり風が強く利尻、礼文の特徴だそうです。昼頃に礼文島香深(かふか)港に着岸しました。

2018(H30).6
昭和51(1976)年8月、大学3年次のワンダーフォーゲル部夏合宿が終了しました。網走サロマ湖湖畔で解散した後は自由行動となり、私は友人と稚内(わっかない)まで行くことにしました。電車で稚内駅に着いた時には手持ちの金が少なくなり、帰りの電車賃を除くと残りが心細くなっていました。私は稚内から利尻島へ渡り1泊するという友人達に自分は行かなくてもいいやと話しここに残ることにしました。お金がなくなったとは伝えていませんがどうやら察していたようです。
フェリーを見送ってから私は公園のようなところにテントを張り宿泊の準備をしました。腹がすいたので食事にしようとしたのですが財布の中を見て考えてしまいました。あと何日の食費が必要なんだろう。町の中に行くと雑貨や魚、野菜を一緒に並べているお店があったので私は安いジャガイモを買い公園に戻りました。
ザックからラジウス(携帯用石油コンロ)とコッヘル(携帯用なべ)を出し公園の水でジャガイモをゆでました。塩は合宿の残りがあったのでそれをかけて昼食と夕食にしました。夜、海に揺れるフェリーの灯りを見ながらいつか利尻島や礼文島に渡ってみようと思うのでした。
平成30年(2018)6月、稚内を出発したフェリーの船上で利尻島を見ながら、そういえばあの時に残した宿題を今やりに来たんだと感慨深い思いになりました。この日は風が強く島に近づいてからでないとデッキには立てませんでしたが利尻富士を見て行ったことがないのに懐かしい気持ちになりました。

利尻島鴛泊(おしどまり)港への到着は夕方となり、すぐにホテルでの夕食となりました。食後、私は一人で散策に出ました。暗くなるにはあと30分ほどでしょうか。フェリーが港に接岸するとき気になっていた岬の小高い山に向かいました。
坂を上ると展望台があり会津藩士の墓と説明板がありました。江戸時代、蝦夷地(えぞち)防衛の任を受けここに来た藩士達は病気になったり船が難破したりで多くの方が亡くなったそうです。登る道はさらに急となり汗が出てきました。やっと頂上に着いてみると暗くなり始めた岬からは利尻富士、港がよく見えあかりの灯った町並みが眼下にありました。

