私達は沖縄の人とあまり別だと考えることは無かったように思いますが、ガイドさんは「内地の人」という言葉をずいぶん使い、その生活が違うことを話しました。その頃私は沖縄が戦場となりアメリカが沖縄を占拠して1972年やっと日本へ返還されたぐらいのことしか知りませんでした。
ガイドさんは戦時中沖縄の人達が受けた苦痛や、戦後アメリカの施政下で理不尽な生活を強いられたことなど近所の人から伝え聞いた話をしてくれました。私達は若かったこともありガイドさんの話やその熱意ある態度にすごいなと少し引いてしまったことを覚えています。でも「内地の人」と言う言葉は今でも沖縄の大変さを感じる言葉として心に焼き付いています。
私達は最終日に斎場御嶽(せーふぁうたき)に行きました。ここは琉球開びゃく伝説にもあらわれる琉球王国最高の聖地です。2000年12月に開催された世界遺産委員会において「琉球王国のグスク及び関連遺産群」のひとつとして世界遺産に登録されました。御嶽(うたき)は神秘的な森の中に岩で作られた拝所(はいじょ)がある大切な場所でした。その歩く途中には沖縄戦での砲撃の跡もありました。こんな大切な場所なのにと思うと辛く感じました。
最後にどうしても行っておきたい場所がありました。それは平和の礎(いしじ)です。ここは世界の平和を願い国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦で亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ記念碑があります。太平洋戦争・沖縄戦終結50周年の1995年6月に建設されたものです。
私はここを歩いた時に果てしなく感じるほど多くの石碑があることに呆然としました。亡くなられたたくさんの方々のお名前がびっしり刻まれています。名前をたどると同じ名字の方がずっと連なります。家族がこんなにも・・。
また外国の方の名前も本当にたくさん刻まれています。アメリカ、イギリスだけでなくアジアの人々、なぜこんなにも死ななくてはいけなかったんだろう。頭の中からは「何故」という言葉があふれそうになりました。石碑の前で花を添え手を合わせている人がいます。また外国の女性で石碑の名前を指でなぞっている方もいました。私はこの人達の戦争はまだ終わっていないと感じました。私達はまだ沖縄の人達にとって「内地の人」なのでしょうか。
H28(2016).4
沖縄の
バスガイドさん
妻が退職し長い勤務が終わった記念に前から希望していた沖縄の旅行に行きました。私も沖縄は久しぶりです。今度の旅行は気ままな日程で行きたいところを絞って行きました。
着いたその日にレンタカーの手続きをして以後は車での移動になります。昼食はきじむなあ定食を食べました。この定食はソーキそば、沖縄炊き込みご飯、ラフテー、海ぶどうサラダ、チャンプルー、漬け物がセットになったもので一気に沖縄の食を食べられるものでした。沖縄に来たなあと感じるおいしさでした。その後沖縄の古民家などを見て、残波岬へ行きました。断崖絶壁が長く続く岬は、青い海と灰色の崖が際だったコントラストを見せていました。
翌日は妻が希望していた美ら海水族館に行きました。大きなジンベイザメが泳ぐ姿に圧倒されて「すごいなあ」と思わずつぶやいてしまいます。残念ながら雨となりましたが晴れた空と青い海が見られたら南国の沖縄の雰囲気がもっと楽しめたのになあと残念でした。夕食は郷土料理のお店に行きました。三線の演奏なども沖縄らしさを感じさせてくれました。
車を運転していると感じることがあります。沖縄の道路は長いフェンスに沿って走ることがあり、自由に曲がれず不便だなと思うことです。それは米軍の基地が大きく取られているせいであると思います。私の住んでいる相模原も同じ事を感じます。基地があるために大回りを強いられてしまうのです。
また神奈川県内では厚木基地の飛行機の騒音は私の住んでいる場所までも響いてきます。沖縄の問題は新聞やテレビで報道されているように住民の皆さんにとっては常に大変なことなんだと同じ感覚で捉えることができました。
私が初めて沖縄を訪れたのは教員になって数年後の昭和56年頃のことです。飛行機に乗ることも数少ない時でしたので遠くに来たなあと思いました。沖縄は蒸し暑く南国をとても強く感じました。空港に迎えに来てくれたバスに乗って街中を走ります。その時の若いバスガイドさんは真面目な人で私達が教員だと知って沖縄の歴史など一生懸命に話してくれました。その話の中で気になる言葉がありました。それは「内地の人」という言葉です。
