もっと知りたい伝えたいわかばやし

古い歴史を持つ三つの神社

若林の人々は日頃は俗に「豪徳寺の鐘の聞こえない所へは行かない」といわれてきました。 地味で村の字の中の者同士で親密に付き合い、互いに助け合う習慣が長い間受け継がれ、 それは現在も受け継がれており、親しみやすいとか下町的とかいわれる所以かもしれません。 神社を今日まで連綿と守ってきた氏子の人々の気持にもそれがよく表れております。

○若林・北野天満宮 (石天神、北野神社、牛天神)
古く応永八年(1401年)武蔵国深大寺の僧、 花光坊長弁が世田谷若林石天神で連歌の法楽を興行したと 『長弁私案抄』に記録が残されています。 菅原道真公を祀り学問にご利益があるとされています。 応永八年(1401年)以前からの天神様です。 ご神体が素焼の牛(石)に天神様が乗っていたもので、石天神と呼ばれました。 ご利益は「虫歯によく効く」と言われ、昔はお参りをする人が多くお礼参りに持ってくる梅の盆栽が所狭しと並んでいたそうです。 名残りの紅と白の梅の木が現在も境内の庭で見事に花を咲かせております。

   東風吹かば匂ひおこせよ梅の花
      主なしとて春な忘れそ 道真 [大鏡]

○若林福寿稲荷神社
明和六年(1769)に地頭より土地が奉納されました。 初詣や毎年九月第二土・日曜日のお祭りでは地域の人々で賑わいます。 昭和二十年五月二十五日の東京大空襲で神社が焼失しました。 昭和五十九年十月に今の稲荷神社の本殿が再建されました。 稲荷神社の神様と神明社(天祖神社)が合祀され、 本殿向かって右には招魂社があり戦争で戦死した人々の霊が祀られています。 また左に大黒天が祀られています。
昔は若林村の祭りは天神様と稲荷神社と神明社の三社が三年に一回ずつ交替で 行なわれ夜店も賑わう一方雨によくたたられていたそうです。 お囃子も盛んで祭りのはじめには三番叟を踊り、蛇殺し(おろち退治)でしめくくったとのことです。 特に盛んな頃は青山や品川から踊りを頼まれ四人一組になって出向くほど有名だったそうです。

○若林・松陰神社

   親思う 心にまさる親心
      けふの音づれ 何と聞くらむ (松蔭・辞世の句)

安政六年(1859)安政の大獄で処刑され二十九歳の若さで生涯を閉じた吉田松陰を 祀ってあります。文久三年(1863)正月南千住の回向院から師・松陰の遺骨を門下の 高杉晋作を先導に山形有朋、伊藤博文等で荏原郡若林村にあった毛利家の抱地内に 改葬しました。明治十五年社殿が建てられ神社となりました。昭和十一年には萩・ 松下村塾を模した家が建てられました。
松陰先生のモットーとした言葉、 「学は人たる所以を学ぶなり」学問は人が人としていかにあるべきかを学ぶものです。

若林・北野天満宮 (石天神、北野神社、牛天神)ふたたび

―若林の地名、歴史への初登場

若林鎮守三社とは北野神社、若林福寿稲荷神社、 天祖神社(現在は稲荷神社に合祀されております)の三社です。 その中で北野神社は最も古く、室町・足利義満の時代、 応永八年(一四〇一年)武蔵野の名刹天台宗深大寺の五十二代院主となられた 僧長弁が著した貴重な古文書『私案抄』として書き記したなかに若林の石天神に おいて百句の連歌を奉納したとの意趣書が残っており、それ以前から天神様への信仰がすでに この地にあったことがうかがい知れます。
意趣書の一部の書き下し文「しかるに当社天満大自在天神は風月の本主なり文道の大祖なり。 霊石たちまちに涌現して一陰一陽の徳化を播し、宝殿急かに建立して万邦万人の崇敬を輸す。 (中略)ここに愚弟、一念随喜の信心を抽で、百韻連僻の卑懐を綴り、 謹みてもって宝前に納めたてまつる。」 神社のご祭神は大宰府天満宮の菅原道真公で、 はじめは、忽然と出現した霊石をご神体としてお祀りし石天神と呼ばれていましたが、 江戸時代の文献には牛天神という名前で記載されています。天神様と牛とは深い関わりがあり、 石(いし)と牛(うし)の訓みも似ていることから牛天神といわれるようになったようです。 北野神社に戦前まではご神体の牛が置かれておりましたが、戦後のどさくさで紛失してしまいました。 平成二十二度、三上傳次郎氏(神社の総代)のご尽力により六十年ぶりにご神体の牛が復活することになりました。 秋の本祭りの時にみたま移しを行い神社の御簾のなかに納められました。

―三上氏より伺った北野神社とその思い出

この北野神社は南は大山道に通じ池上本門寺にむかい、 北は堀の内のお祖師様に通じる旧道にあったのでお参りする人たちで大変にぎわいました。 現在は、環状七号線がつくられ境内がかなり削られ手狭になっていますが、 かっては天神様の境内は広く社務所(現若林まちづくりセンターあたり)もあり、結婚式、披露宴なども 執り行われました。神社の階段を下り、道の向かい側あたりに火の見やぐらがあり半鐘の打ち方で火事が 近くか遠くかを知らせていました。
北野神社のお祭りは三社順送りのため、三年に一回なのでたいそうにぎわい旧道にはたくさんの露店が出て、 子供たちは十五銭ぐらいのお小遣いをもらうとフライ(とんかつの小さいもの)にソースをつけて食べたり、 射的などをして楽しんだそうです。

若林・松陰神社ふたたび―若林抱屋敷と松陰神社

―長州と若林村の縁

江戸は毎年一〜三月の季節風による火災被害に苦しんでいた。
長州藩毛利家は外桜田、新シ橋、青山に幕府拝領屋敷を有し火災に備え用心屋敷を建てようと 探していた。青山から一里半渋谷近く荏原郡若林村がよいとなり寛文十二年(一六七二) 一万八千三百坪を購入した。若林村は八王子千人頭志村家の知行地で抱屋敷の土地売主は 新右衛門であった。新右衛門は若林村の村役人を勤めていた根岸家の者であったようだ。 その後幕府の享保改革により抱屋敷の家作と囲いの禁止と新規抱屋敷設置の禁止が発令され 享保三年若林の地は百姓家二軒農具長屋一軒、入口に番小屋のみの囲いのない抱地となった。 毛利家文庫に残された若林抱地地図によると大部分は田と畑と林であった。
立木は火災の際の屋敷の作事に何回か利用され、幕末期には記録では立木の数は千本を超えていたという。

―松陰墓所と松陰神社の創建

吉田松陰(一八三0〜五九)は安政の大獄で捕えられ安政六年(一八五九) 十月二十七日伝馬町にて処刑二十九日小塚原回向院へ埋葬、文久三年(一八六三) 一月高杉晋作らの弟子により若林の抱地に松陰他二人の遺骸を改葬した。 しかし、翌年元治元年(一八六四)七月、第一次長州征伐に先立ち抱地は幕府に没収され 住居と墓域も破壊された。土地は志村家預り材木は地元へ払い下げられた。 同地は明治二年(一八六九)正月朝廷より毛利家が再拝領することになり旧に復した。 明治元年木戸孝允から松陰墓所に鳥居が寄進され、明治二年十月二十六日には前原一誠、 広沢真臣ら一四名が墓参し墓前で招魂祭を挙行、記念撮影をした。
松陰神社の創建は明治十五年(一八八二)、創建願はこれまでは同志の者相会し年々私祭する 所追慕の念止まず、神社として永久祭祀したいと五月二五日毛利元徳らにより 東京府に提出され内務省に送られ、六月二十日許可となった。
祠掌は上馬引沢村八幡神社祠掌兼帯の斎藤信良であった。明治期の境内は二四一三坪、 信徒数は三五〇人との記録あり。

さぎ草伝説-常盤姫―若林村と近在の伝承

―常盤姫と白鷺

およそ三百年昔の室町時代の末、戦乱の時代、世田谷城八代目城主吉良頼康は 鷹狩りで一羽の鷺を奥沢で捕らえました。その鷺の足には和歌の書かれた短冊が 結び付けられていました。

   「狩人の今日はゆるさん白鷺の しらじらし夜の雪のあけぼの」

頼康は和歌の主を求めて家来に領内をくまなく探させました。 それは奥沢城主大平出羽守の娘、常盤姫であることが分かりこの縁で常盤姫は 女房として頼康に仕えることになりました。常盤のたぐいまれなる美貌と優しい 人柄は頼康の寵愛を独占していきました。他の女房たちはかえりみられなくなりました。
女房たちは有らぬ噂を流してついに常盤を陥れました。 頼康の怒りに死を覚悟した常盤は無実を訴え、 別れの文を白鷺に託して城を逃れましたが、 現在の常盤塚の地で追っ手に捕らえられ十九歳の若き命を落しました。 妊娠八ヶ月の身重でした。やがて無実だったことを知った頼康は 十三人の女房たちを処刑し若林その他の地に十三の塚をつくって埋めました。 常盤は弁財天として祀り胎児は駒留八幡に合祀しその霊を慰めました。 一方、文を託された白鷺は奥沢城の近くまで一生懸命飛びそして力尽きて 沼に落ちてしまいました。明くる年の夏、沼のほとりに鷺に似た美しい花が 一斉に咲き出でました。スッと伸びる茎に白鷺が翼を広げているような形の 真っ白な花、さぎ草です。

―常盤塚の修復と継承

常盤姫の悲話は、毎年七〜八月頃花を咲かせる白鷺に似た「さぎ草」の普及が 進むにつれて人々に知られるようになりました。常盤姫が実在か否かは定かで ありませんが世田谷の歴史上の人物として有名になりました。哀れにも上馬中郷の 露と消えたといわれる場所は現在の上馬五丁目にあたり、古くから「常盤姫のお話」 として地元の人々に語り継がれております。しかし、長い間常盤塚自体はかなり荒れ 果てた状態でした。
昭和五十八年、この状態を見かねた世田谷区誌研究会員と常盤姫に縁の深い 常在寺檀家地元の方々、駒留八幡神社の氏子会有志、世田谷区の教育委員会の協力を 得て現在のように立派に再建されました。
毎年四月初め桜の花の咲く頃、塚と地元の方々との深い絆を保ち、 後の世に永く伝えることを目的として常盤塚保存会が中心となり、 常盤姫の供養が行われております。

太子堂郷学所から始まる若林小学校(平成二十三年に創立百四十周年)

―郷学所設立前夜

荏原郡世田ヶ谷郷仲馬引沢村(現在の上馬)に髪結を営む常次郎(姓は鈴木) は父からよく学びよく働き世のため人のため尽くすのだよと言われていました。 じっくり学問したいと強く望んでいた常次郎はやがて千葉の豪農の子ながら国学と 兵学に秀で二十歳そこそこで門弟が百人を越えたという相楽総三という若者に 出会いました。これからは農家の人も幼い時から学問に親しむべきだ。 二人は意気投合、親友として歩みました。しかし、時は幕末、総三は赤報隊を組織し 西郷隆盛率いる官軍に加わり農民の悲嘆を思う総三は年貢半減を旗印に進軍。 沿道諸藩から批判轟々となり事前に許可を与えられていたにもかかわらず 官軍側は偽官軍の汚名を着せて処刑しました。 (数十年後名誉回復しています)
許されて世田谷の地に帰った常次郎の心の中には教育の理想が赤々と燃えておりました。

―太子堂郷学所設立

江戸から東京に変わり常次郎は名前を斎藤寛斎と改め、近在の村々を回って 「誰もが学べる所をつくりたい、設立に協力してほしい」と説いて回りました。 子供は学問より働くべきだと反対する人もいましたが、 寛斎の熱意に動かされ協力する有力者が多く出てきました。 上目黒村の加藤平次右衛門と下北沢村の月村重蔵、それから等々力村の豊田兵左衛門、 代田村の斎田平太郎、上北沢村の榎本平造などが力を合わせたくさんの設立資金を 集めました。
明治四年、校舎を太子堂村 円泉寺所有地太子堂村三八○に四十四坪の茅葺屋根平屋を建設、 太子堂郷学所と名付けられました。明治七年には、世田谷初の公立小学校となり、 初代校長には宮野芟平が就任いたしました。明治三十三年校舎三棟が焼失したため、 明治三十五年若林の現在の地に校舎を建設し今日に至っています。 宮野氏は太子堂郷学所設立から小学校設立までを二冊の記録書、沿革誌甲号(元郷学所初ヨリ) 乙号(小学開業初ヨリ)として書き残しました。

柏崎と若林の時代を超えた交流

私の学童疎開   田尻勝紀(若林5丁目在住)

平成19年7月16日に新潟県中越沖地震が起こった。
7月18日の町会理事会で根岸町会長から、若林と新潟は特別な縁・関係にあることが披露され 被災者への義援金を送りたいとの話があリました。
私は時間を越えて過去のその時代の柏崎での疎開生活のときのことを思い出しました。
若林国民学校の生徒は新潟に集団で学童疎開することになり、昭和20年3月24日、 2年生〜5年生の男女47名が午後6時に学校に集合し、青木林之助校長の挨拶の後、 各自乾パン1包をもらって暗い小雨の道を若林駅に向かった。
その年の3月10日東京都心はB29の爆撃により一面火の海と化して壊滅的な被害を蒙った。 小学生以下の児童は全員都内から離れることになっていた。
若林駅で僕達は、日の丸の旗を千切れるほど振って出征軍人を何度も送り出していたが、 自分たちが車内から家族に手を振るというのは妙な気持ちだった。 新潟に着くと猛吹雪で約1里の道を一列になって北鯖石村に向かって行進した。 皆のいでたちは防空頭巾に運動靴、寒風と足の冷たさも、 前の人に遅れまいとの一心で麻痺してしまうほどだった。
北鯖石小学校で歓迎式の後、学童疎開先の東城寺に到着、コタツに入らせてもらってホッとする。 お寺の本堂がこれからの生活の場になった。
お父さん、お母さんに感謝しつつ、「 いただきまーす!」と朝食を取り生活が始まった。
地元の子供と一緒に学んだ。教室では顔は何時も教壇ではなく、東京方角の山ばかりを見ていた。 昼食、横目で地元の級友の銀シャリ弁当を覗きながら大豆・コーリャン混じりの弁当を噛みしめた。 寂しさを紛らすためか、歌はよく唄った。「童謡」「唱歌」「軍歌」。
夕食後、入浴、近所の家へ数人づつもらい風呂をした。
雪が解けると分校に通っていた生徒も本校に通えるようになり、学校も賑やかになった。 時には遠足をかねてわらびやぜんまい取りに出かけ、田んぼや小川で泥鰌、フナ、タニシ取りもした。 また皆で育てた、堀りたてのジャガイモをその場でゆでて食べた。 とにかく腹が減って、しらみに食われてこの2つが無ければどんなによかったか。
たまに空襲警報が発令されると我々疎開っ子は机の下に潜り込むが、 地元の子達は窓から顔を出して敵機を眺めてた。飛行機が珍しいのだ。 僕のつたないB29の絵が引っ張りだこで切り餅3枚に代わったのはありがたかった。 たまに慰安の映画会・紙芝居が開かれ「加藤隼戦闘隊」などに混じってお化け映画の場面を 未だに覚えている余程怖かったからだろう。上級生は田植えの手伝いや松根掘りに動員された。 夏に豪雨で鯖石川が氾濫し、本堂の床ぎりぎりまで濁流が来て驚いた。洪水が収まった頃、 家々の玄関のすだれに忌中の張り紙が出ていて不気味だった。赤痢などの伝染病が蔓延したらしい。 風邪や下痢など家族が心配することは手紙に書いても検閲で没収されてしまうので自分達の胸にとどめた。
東京に帰りたくて一度脱走を企てた事があった。若林にもあるのと同じ高圧線の鉄塔が見えたから、 アレに沿って行けば帰れると子供心に考えた。後日、近くの発電所の人に聞いた 「この高圧線は何処に行くのですか?」「東京です」、間違いなかった。 実際は未遂に終わった。村から北の方角を見ると砂山が連なりその向こうは日本海だ、 砂山には石油採掘井戸のやぐらが見えた。今の柏崎・刈羽原子力発電所の辺りだ。 若林は前年から学童疎開が始まり隣村の寺に次姉が来ていた。 その西方寺から思いもかけず疎開学童が皆で尋ねてきてくれた。その中に次姉もいた。 暫く振りで姉と面会ができた。自由時間は余りなかった。姉は大事そうに紙包みを僕の ポケットに押し込んでくれた。そっと見るとお菓子だった。 きっと自分のおやつの分を僕のために大事に取っておいてくれたのだ。 その後その西方寺に皆で遠足にいった。田んぼの中のわが東城寺と違い、 山懐に囲まれた大きなお寺で本堂の回廊を駆け回ってははしゃいだ。 終戦の時、僕は東城寺の墓地の木の上にいた。誰かが「戦争は終わったぞ」と言うのが聞こえ 「勝った!」と思い、一刻も早く先生に知らせようと、木から飛び降り、職員室に駆け込んだ。 皆押し黙った雰囲気に敗戦を悟ったのでした。
今までの輝かしい戦況を伝えるラジオ放送はなんだったのか。そんなはずはない。 しかし負けた。戦争は終わった。
昭和20年10月29日午後3時新潟県柏崎の東城寺を出発、北鯖石国民学校生徒の見送りを受けて、 安田駅より汽車で上野に向かった。汽車が大宮を過ぎ、川口の辺りから街の様子が一変した。 想像以上の惨害を目にしながら、これからのことが不安で不安でならなかった。 翌朝午前6時40分頃若林駅に全員が降り立った。
私は戦後柏崎の寺と小学校を2度訪ねている。1度は一人であの時から44年後だった。 お寺に立った時なぜか涙が止まらなかった。2度目は54年後、学友6人と行った。 過ごしたのはたった半年であったが、あの学童疎開の出来事は今も心に深く残る思い出の 一コマ一コマである。柏崎は今も私を育んだ心の交流の地、えにし深い大切な地域である。